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Embryo No.836の光と影

はじめに

カーネギー研究所に保存されているEmbryo No.836は、受精後28-32日のStage13という妊娠の最も初期の段階の胚子です。わずか4mm程度の小さい、しかし現在に伝わる最も有名な胚子のひとつです。誕生してほぼ100年間、No.836はヒト胚子学の中心的存在でした。No.836は研究材料として切り刻まれ、そこからイラスト、写真、モデルが作成され、多くの雑誌に登場し、写真集、21世紀に入ると3D,4D化された映画にも登場しています。こんな生命の象徴としてスター街道を歩みつづけたNo836の物語です。

胚子標本の生い立ち

この胚子の生い立ちは、多くを知られている訳ではありません。バージニア西部の田舎に生まれ育った、結婚4年目妊娠歴ない25歳女性がいました。1914年の新年初頭、腹部のしこり、出血を主訴にBaltimoreにある John Hopkins clinicsを受診した彼女は、担当医Dr. Ruselに子宮筋腫の診断で子宮全摘を告げられます。そして2月の月曜の朝、Marylandの婦人科病院で彼女の子宮は取り出されました。それは猛吹雪がちょうどBaltimoreの街を通り抜けて行くまさにそのときであったといいます。その後の彼女についての記録はありません。手術で助かったかどうか。不妊になったその後、彼女がどのような人生を送ったのか、さらに取り出した子宮から小さな美しい娘(1)が宿っていたことを彼女が知ったかどうかも、もはや知ることはできません。

彼女の子宮は摘出後その場であけられ妊娠が確認されるとただちにカーネギー研究所に運ばれて処理されました。病院と研究所でそういう取り決めを以前からしていたからです。1950年代まで妊娠女性の子宮を摘出することは繰り返し行われていました。当時妊娠テストはなく、外科医は決して妊娠を終わらせる意図はなく、摘出した子宮から偶然妊娠が分かるという具合でした。そして、発生学者はその偶然に依存していました。つまり、外科手術は胚子を集める貴重な手段でもあり、また、新鮮で完全な標本は病院から得られた標本であるというのは、間違うことのない事実でした。カーネギー研究所に保管されるStage13の胚子のうち状態のよい”excellent”に分類される個体は26例中9例にすぎず、そのうち7例は妊娠女性の外科手術によるもので、その内訳は子宮摘出5例,子宮切除1例、卵管妊娠1例であったといいます。予期せぬ外科手術による中絶という悲劇から、ヒトの胚子標本は誕生していた訳ですが、当時の状況について付け加えると、摘出され死に絶えたヒト胚子のその後の利用については、当時、倫理的な問題を取り沙汰されることはありませんでした。1900年代初頭、胚子学者以外にとって、それは価値のないものだったのです。こうして多くの名もない胚子が、社会の陰で研究材料として蓄積されて行ったのです。このようにしてカーネギー研究所には、1900年初頭から40年代半ばまでの間に約9,000体の標本が集められたと言います。これがカーネギーコレクションです

胚子のモデル化

この胚子をカーネギー研究所最初に受け取り解析を行ったのはDr. Herbert McLean Evans(2)でした。Evansはこんなすてきな子をありがとうと、担当医Dr. Ruselに手紙を送ったと言います。研究室に運び込まれたNo.836は、変性しないように固定され写真撮影をされました。研究者の興味は、ヒト胚子の精確な外表、内部構造の記載にありました。そのため、No836は、全身は15ミクロの厚さに正確に切られ247枚の標本に分解されました。続いて、標本のスケッチ、立体像の再構成、イラストの作製に使用されました。立体モデルの作製は技術者Osborne O Heard が担当し、No.836から少なくとも心臓4、血管系1、脳1、外形1の7体が作成されました。彼のモデル作成能力は抜群で、完成したモデルからは多くの図表、イラストが作成されました。イラスト画家としてはDidusch JFが有名で何10もの学術書にNo.836のイラストは採用されました。このようにNo.836は、その美しさ、完璧さから人気を集め、”Kate Moss” of Embryologyとも言われているそうです。

No.836がこのように貴重な標本であったことから、こんなエピソードも残されています。No.836を精力的に解析していたEvansは、1915年カルフォニア大学に教授として栄転するこのになるのですが、研究所長のMallはNo.836を持ち出すことを許可しませんでした。EvansはいずれMallの後継者になるであろうと言われていたほど、その才能を認められており、また、2名は親密でいたのですが、No.836をめぐる三角関係で溝ができ、以後それが埋まることはありませんでした。

新しい可視化スタイル

Heardの模型はお世辞にも美しくはありませんが、美しい必要もありませんでした。胚子学者の興味は上述したように外観、内部構造の正確性が最優先であったからです。一方、60年台になると胚子の可視化には学術的要素だけでなく、教育や娯楽の要素が加わってきました。Lennart Nilssonが1965年雑誌Lifeに掲載した胎児写真は斬新で人々の注目を集めました。バックライトで照らし、暖みのある色、赤ちゃんらしい顔、手足、親指をしゃぶるようなしぐさ等です。また、最近ではTsiaras Aの出版した”Conception to Birth”では、コンピューターグラフィックス等を駆使し、色彩鮮やかで、劇的な可視化を実現しています。

このように時代が代わり表現形が変わっても元をたどるとカーネギー研究所で集められたNo.836を含む胚子標本を用いていることが分かります。Tsiaras Aはこの出版物で「カーネギーコレクションに敬意を表し捧げる」旨表紙裏に書いています。しかしながら、この本のどこを見ても、これらの画像が死んだ胚子標本から創られたものとは思わないでしょう。この本では、胚子は生命の象徴なのですから。こうした書籍は、胚子標本を用いて科学的に正しいものを提供してはいますが、その明るすぎるメッセージ性のために、科学的な負の面、たとえば多くの受精卵は子宮に定着できない、自然流産の多さなどを隠してしまっています。

胚子を動かす

90年代になると胚子標本はコンピューターに取り込まれ高解像度のデジタル画像となります。さらに、その胚子画像に動きが与えられ、生命を吹き込まれました。動画の作成は、グラフィックスの進歩により技術的に可能になったこと、理解しやすい学生用教材の必要性、胚子を扱った娯楽的企画に対する需要、さらにこの分野に多額の研究費が投入されたことが原因で進歩を遂げました。No.836が3次元の世界を飛び回る胚子動画プロジェクトに NIHの予算 300万ドルが投じられました。 virtual embryo, visible embryo- といったプロジェクトでもNo.836はモデルの主役をつとめています。No.836は現在世界で最もよく知られているヒト胚子と言って過言ではありません。No.836はon lineで様々な方向、速さで動く姿を見ることができ、247全断面の組織像も見られます。

No.836に限ったことではなく、すべての集められたヒト胚子には、それぞれ語り継がれるべき物語があります。かつては女性の体内に生を受けたものが、道をそれて、身の毛のよだつような終焉を迎え、小さな肉の切れ端に終わるかと思いきや、研究室へ連れていかれ、科学的に有用な標本となり、それは芸術家の心を捉えるようになりました。3D,4D動画の材料となり、今や、研究者や美術館の資金源にもなっています。

No.836は、単なる死んだ研究標本から、”セレブ”な姿を利用した資金源へ変貌しました。100年の間に胚子をとりまく環境は変わったのです。No.836は、カメラの前で宙返りをしたり、電脳空間を旅したり、テレビ出演のリハーサルをしたりと、死んだ胚子でも長く実りある生活を送れることを示しています。No836はまさに生命の象徴、そう美しく感動的で、不思議に満ちた、すばらしい生の誕生の象徴。我々は、しかし、そういったまばゆいばかりの光の中に覆い隠された、死んだ胚子たちの陰のメッセージにも気づかなくてはならないと思います。

参考文献

Morgan LM: A Social Biography of Carnegie embryo No.836, the anatomical record, 2004の内容を一部改変し記載

注釈

1:この胚子は、Dr. Gasser Rにより核内にBarr bodyがあることがわかり女であると確定されている

2:Herbert McLean Evans1882–1971はカルフォニア大学で成長ホルモンの単離Vitamin Eの発見、生成、構造式の決定など数々の業績を残した。